ねこやまローカボ日誌

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中学受験ブログ⑱ 放置系授業との違いを生むために、生徒に共通認識を持たせる


放置系との違いを生むために、生徒に共通認識を持たせる

 

生徒が思考できる問題を拡大する。

 

最初は全く手が付けられなかった問題も。

段々と領土を拡大するように、その陣地を奪い取る。

 

週の中で僅かな時間しか共有できない、生徒との個別授業。

その時間のなかで、何を教えるべきだろう。

 

知識の享受だけでなく、発想と行動の提供

一人でも自宅で勉強できるよう、生徒を導く必要がある。

 

 

これは一人の中学受験生と体験した、2年間の受験記録。

お時間のある際にでも、お読みいただければ幸いだ。

 

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解かせるだけでなく、生徒と思考を共有する

解かせるだけでなく、生徒と思考を共有する

 

もう一度戻ってきた、繰り返し演習

 

同じ問題を解きながら、その問題の特徴を理解させる。

そして同時に振り返り、前はこう解いたと思い出させる。

 

丸暗記でも構わない、過去の思考過程の振り返り。

もう一度その原点に戻り、私はコウスケに大量のプリントを手渡した。

 

 

しかし。

ここで一つ、私に大きな疑問が沸き起こった。

 

これは少し前までは気にしていなかった、当然の疑問。

なぜ今までこの疑問が湧かなかったのか、不思議に思う。

 

それは、他の生徒との違い

コウスケに取り組ませるこの学習方法は、一体他の生徒と何が違うのか。

 

 

繰り返し同じ問題を解くという、この学習法。

もちろんこの学習法の目的は、思考の過程を築き上げるもの。

 

そして同時に思考の粘りを身につけさせ、問題への安心感を養わせる。

これらの沢山の目的を、時間をかけて達成する目的がある。

 

 

しかしこれは、私の中の目的である。

言い換えれば、将来的なビジョンをもった大人の思考である。

 

この内容が仮に、コウスケに伝わっていなければ。

これは他の放置系生徒と、何も変わらないのではないのか。

 

 

放置系生徒。

少し表現は悪いが、私の塾にはこの種の生徒が多数存在した。

 

その名の通り、放置系。

担当講師が生徒にプリントを与え、ただひたすら問題を解かせる。

 

大切な90分の授業を使い、ただひたすらにペンを動かさせる。

時には学校の宿題過去問だけを、時間一杯解かせてはい終わり。

 

やる気のない講師では、同様の放置系授業が散見される。

そしてそれは、最も私が苦手とするタイプの授業でもあった。

 

 

しかし私がコウスケに取り組ませる学習方法も。

やり方の基本は、彼らと同じ。

 

唯一違うのは、その徹底度と同じ演習範囲を繰り返すこと。

しかしそんな些細な違いで、彼らと大きな差が生まれるのだろうか。

 

そしてコウスケがもし、自分も同じだと考えたら。

自分も放置されている、放置系の生徒であると認識したら。

 

信頼関係・授業目的は一気に瓦解する。

これ解けばいいんでしょ?と、冷めきった授業になりかねない。

 

 

これはまずい。

 

目的が明確でも、それが生徒と共有できなければ意味がない。

つまり大切なのは、その演習の目的をコウスケに伝えきることである。

 

 

この繰り返し演習は、一体何をしているのか。

そして最終的に、何ができるようになるのか。

 

解き慣れた問題を見て、何をしなければならないのか。

繰り返し同じ問題を解く意味は、一体何なのか。

 

自宅演習では、何をしなければならないのか。

自分一人で勉強をする時、何に時間をかけるべきか。

 

 

これらの共通認識を、徹底的に刷り込ませる。

これこそが放置系生徒と一線を画す、最大の特徴となる。

 

そのための時間は、いくらあっても足りはしない。

コウスケが徹底的に理解するまで、何百回でも共有しよう。

 

 

授業の最初と最後の5分間。

 

私はコウスケに伝えることにした。

この繰り返し演習が持つ意味合いを、徹底して伝えるのだ。

 

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生徒と意識の共有は不可能と言う先輩講師

生徒と意識の共有は不可能と言う先輩講師

 

同じ思考が共有できるわけがない。

 

お昼休憩で出かけた、近所の中華料理屋。

先輩である数学の井上先生が、さらっとそう言った。

 

講師の考えることは、生徒に10%も伝わらない。

大人の思考と彼らの思考を、同じだと思うなよ。

 

 少し反抗的で、否定的な先輩の意見。

しかしそれは、何かの経験則に基づくようだった。

 

俺も昔は、自分の進め方を生徒と共有しようと取り組んだ。

でもそれが可能なのは、元々思考が固まっている生徒だけだ。

 

そう言いながら、彼は持論を展開し続けた。

下のレベルの生徒との意識のすり合わせが、いかに難しいかを。

 

 

できない生徒は、自分の思考に陣地がある。

そしてそこには、面倒くささや知識不足などの負の要素が渦巻いている。

 

 もし生徒と一緒に、新しい思考回路を共有するなら。

その陣地に足を踏み込むことから、始めなければならない。

 

それは彼らが、論理的に生きる人間ではないから。

自分が一番楽な選択肢を、目の前の行動から選ぶだけだから。

 

 

もし彼らに、思考回路を育てる演習をやらせる場合。

それは彼らに、二つの仕事を与えるようなもの。

 

一つは、目の前の問題を解くこと。

そして同時に、問題を解く意味を考えること。

 

そんなテクニカルな解き方を行う時。

必ず彼らの陣地に踏み入れる。

 

 

もちろん、一瞬は講師の言うことを理解しようとするかもしれない。

しかしその時、彼らの脳内では他の優先したい出来事が多発する。

 

問題を早く解いて、褒められたい。

正解を答え、100点を取りたい。

 

そんな思考に、理解しづらい大人の発想を上乗せする。

すると必ず、不要な情報として取捨選択が発生する。

 

どんなに大人が理屈で分かっていても、彼らは理屈では考えない。

ただ目の前の選択肢が、楽かどうかで判断する。

 

中学に合格できるというメリットは、その選択肢よりも優先順位が低い。

さらには落ちたら別の所でもいいやという意識も、少なからずある。

 

 

そんな彼らの思考に存在する、優先順位を定める陣地

毎回リセットされるその陣地を、言葉だけで埋め尽くせるわけがない。

 

井上先生は、ずっとこのようなことを仰っていた。

大変理論的で、勿論納得できる部分も多々存在した。

 

 

なんとも邪魔である。

そんな正論を聴かされても、正直どうしようもない。

 

これは誰の教育論が正しいとか、そういった問題ではない。

ただ単純に、やるしかない状況なのである。

 

そんな理屈の世界じゃない!と、理路整然と論破し返すわけではない。

ただシンプルに、私に残されている方法は一つしかないのだ。

 

 

繰り返し目的を共有する。

 

コウスケは繰り返し、同じ問題を解き続け。

私は繰り返し、その学習方法の意味合いを説き続ける。

 

コウスケが繰り返すならば、私も繰り返す。

このシンプルな構造を、再確認した一日だった。

  

~ 次回19回に続く ~